ウスターソースに幸あれ

ウスターソース党・党首

藤田 勝

私がまず最初に申し上げたいことは、「ウスターソースは冷遇されていないか?」ということであります。大規模な調査を行ったわけではありませんので軽々に断定はできませんが、身近なところで聞き取りを行った限りでは「えっ、ウスターソースが好きかって? いや、それないわー」という声がじつに多い。これはウスターソース党としてゆゆしき事態と言わざるを得ません。もちろん、好みは好みとして尊重されねばなりません。私とて「ウスターソース、ないわー」派の方々にウスターソース党への入党を無理強いするつもりはございません。しかしながら、自らが「ウスターソース、ないわー」派だからといって、家庭内にウスターソースを置く必要がない、一切購入する意思がない、という独断は許されるものでしょうか。私は申し上げたい。ウスターソース主義を胸に抱えて日々を生きる者にとって、家庭内のどこにもウスターソースの存在しない状況はまことに耐え難い。ウスターソース主義者は、耐え難きを耐え忍び難きを忍びつつ、ウスターソースを渇望しているのであります。小ボトルでもいい。せめて一家に1本、ウスターソースを買い置いてやっていただきたい。いや、百歩譲って購入を拒絶されるのであれば、せめてウスターソース党員自らが購入したものを食卓に、食卓が無理なら台所の床下収納の片隅でもいいから置かせてほしい。そしてウスターソース党員によってそのボトルが遠慮がちに食卓に持ち出されたあかつきには、その使用をどうか、どうか広い心で容認し、温かく見守ってやっていただきたい、と切に願う次第であります。

思うに、ウスターソースの実力は過小評価されているという気がしてなりません。その根本には「食わず嫌い」「使わず嫌い」といった現状も垣間見えるわけであります。そういったウスターソースに対する経験値の低い方々に啓発を行っていくことも、ウスターソース党の責務でありましょう。そのためには中濃ソース党、トンカツソース党と共闘体制をとりつつ政局運営に取り組む覚悟を、ウスターソース党は持っております。

今こそウスターソース党として立ち上がるべき時がやってきたのです。党員一致団結してウスターソース主義を掲げ、Iウスターソースの御旗のもと、ウスターソースの復権を目指そうじゃありませんか。どうですか、皆さん!

第1講 ウスターソースとは何者か     

 食品売り場にあるソース類の棚。そこにはウスターソースをはじめとして、中濃ソース、濃厚ソース、トンカツソース、お好みソース、焼きそばソースなど、おなじみの商品がずらりと並んでいる。日本農林規格によれば、これらすべて「ウスターソース類」という名称でひとくくりにされる商品群だそうな。ウスターソース類は「野菜、果実類、砂糖類、食酢、食塩、香辛料を必須原材料として調整した茶色または茶黒色の液体調味料」と定義され、さらにいくつかの規格基準(粘度、塩分濃度など)によって3つのカテゴリー、すなわちウスターソース、中濃ソース、濃厚ソースに分類される。

ごく簡単に整理すると、粘度が低く水のようにシャバシャバしているものがウスターソース、ややとろみのついたものが中濃ソース、非常にとろみの強いものが濃厚ソース、というふうに覚えていただければよいだろう。基本的にはこの3種類だけがソース類の正式な区分けであって、それ以外のソース、たとえばトンカツソース、お好みソース、焼きそばソースといった名称は製造メーカーが使用用途をソースの商品名に盛り込んだ俗称ということになる。

ここで「ウスターソース類」という言葉にご注目いただきたい。なぜ日本農林規格はソース全般の総称を「ウスターソース類」と定めたのか。「中濃ソース類」でもよかったし、「濃厚ソース類」でもよかったはずなのに…。思うに「ウスターソース類」には「ウスターソースとその仲間たち」といったニュアンスが含まれている気がする。つまり日本農林規格的には、日本ソース界にあっての絶対的エース、ドラフト一巡目選択希望選手がウスターソースであると暗に示す意味でこの名称を選択したのではないか。そう考えると、日本農林規格が一目置いている実力派、ソースの中のソース、ウスターソースとはそのようなソース界きってのエリートとして位置づけられる存在なのであろう(深読みしすぎ?)。

規格文書を読み解いたおかげで、ウスターソースとは何者であるか、その出自が明らかになった。これらをしっかり胸に刻みつつ、いよいよ本題へと突入していこう。

第2講 目玉焼きにウスターソース

さて、のっけからいきなり重いテーマに取り組んでみたい。「目玉焼きの味付けに何使う?」問題。これは、いくら議論を尽くしても決着を見ないであろう目玉焼きをめぐる永遠のテーマのひとつである。塩(あるいは塩コショウ)派、醤油派、ソース派はもとより、近年ではここにマヨネーズ派やトマトケチャップ派なども参入し、目玉焼き周辺の事態は、どんどんややこしい方向へと推移しつつある。

実際、目玉焼きには、味付けをどうするか以前の問題として、数々の難題が未解決のまま山積している。たとえば、「生か半熟か固焼きか」をめぐる黄身の焼き加減問題、「サニーサイドアップかターンオーバーか」をめぐる焼き面の選択問題、「白身から食べるか黄身から食べるか」の食順どうする問題、「黄身をつぶすか、最後まで保つか」の黄身形態保持問題など、目玉焼きは、いまもって解決していない種々の案件を抱えながらも、日々われわれの食卓に登場する。それらの案件の解決を先送りしたまま、ここで「味付けに何使う?」問題へと踏み込むことは時期尚早との謗りをまぬかれないかもしれない。

とはいうものの、本講は、あくまでも「ウスターソース主義」の啓発をその中心に据えているのであり、私の目玉焼きに対するスタンスは「ウスターソースをおいしくいただくためのアイテムとしての目玉焼き」といったところに置かれている。てなわけで、総合的な目玉焼き論議はひとまず置いておき、ウスターソースと相性の良い目玉焼きのあり方についてとりあえずの考察を行ったのち、「目玉焼きとウスターソースの魅惑のコラボレーション」について言及していくことにする。

まず最初にはっきりさせておかねばならないのは、「黄身の焼き加減」問題と「味付けに何使う?」問題の連動について、である。「黄身の焼き加減」と「味付けに何使う?」には、かなり密接な関連性がある。私自身、ウスターソース主義者を自認している立場ではあるが、目玉焼きには何が何でもウスターソースで味付けをしなければならない、とは考えていないということを先に申し上げておこう。つまりこういうことだ。目玉焼きの黄身が生卵的感触を残す状態(生~ゆるい半生)である場合には、これに対する調味料として、ウスターソースよりも醤油あるいは塩の方に軍配を上げたい。関係各位からの「それがウスターソース主義者たるもののとるべき態度か?!」とのご批判は覚悟のうえで明言する。やはり日本人にとっての醤油は、調味料界の横綱格、塩も然りである。これほどの実力者を押しのけて「どけどけどけぇい、ウスターソース様のお通りでぃ!」とゴリ押ししたのでは大ケガのもと。ここではあくまでも客観的な立場に身を置き、適材適所の精神を持って目玉焼きに対峙すべきであろう。

さて、ここまでの長い前置きをもって、第2講「目玉焼きにウスターソース」論は、やっとスタートラインにたどり着くことができたようだ。黄身が生卵的感触を残す状態(生~ゆるい半生)である場合には、醤油ないし塩が適している、これが考察その1である。それを踏まえたうえで、ウスターソースと最も相性の良い目玉焼きを「サニーサイドアップ、黄身固焼き」と定義したい。

「サニーサイドアップ、黄身固焼き」の目玉焼きには、ウスターソース。

ここに、ウスターソース主義者としてどうしても譲ることのできない一線がある。

朝食のテーブル。皿の上に焼きたての目玉焼き(サニーサイドアップ、黄身固焼き)が置かれている。私はおもむろにウスターソースのボトルを手に取り、目玉焼き中央に位置する黄身のふくらみめがけて、ソースをひとたらし。このときのソース量はさほど多くなくてもよいと考えている。目玉焼き表面はおおむねソースをはじくので、かけられたソースは目玉焼き表面を滑り落ち、目玉焼きと皿の間に回り込む。

ここからどのように目玉焼きを崩していくか。そのアプローチは人それぞれで、議論の分かれるところであるが、私の場合はとりあえず白身の周辺部分から中央に向かって進攻していく作戦に出るのが常だ。白身の裏側に回り込んだウスターソースは、程よく白身にからみつき、ウスターソースそのままの味で白身とともに口へと運ばれる。若干ピリリとした刺激を楽しみながら白身を片付けたら、いよいよ黄身に取りかかる。

黄身へのアプローチには2つの方法がある。ひとつは黄身周囲の保護膜である白膜成分を完全に取り除いて黄身を丸裸にし、一気にひと口でパクリといく方法。もうひとつは、黄身周囲のギリギリの白身はそのままで、黄身の中央部分にザックリと箸を入れて中央から2分し、その半分ずつを口へと運ぶ方法である。いずれの方法を選択しても、黄身が皿の上に残ったウスターソースに触れた瞬間、毛細管現象により黄身の中へと吸い込まれ始める。ここで皿のウスターソースを充分に吸いこませ、ころ合いを見計らって黄身を口中へ。舌の上ではウスターソースの酸味と黄身の甘味が混然一体となって、えもいわれぬハーモニーを醸し出すのであった。うう、たまらん。やっぱり目玉焼きはこうでなくっちゃ。

第3講 肉にウスターソース

私はこれから恐ろしい主張を展開しようとしている。そして、その主張どおりの行動を実行に移した場合、場所が場所であれば、悲惨な結末が待っている可能性は極めて高い。けれど、ウスターソース主義者を明言した以上、避けては通れない道と覚悟を決めて、ここに自論を展開する。

たとえば私と連れだって、ビストロと冠されるような、いくぶん敷居の高い(おそらく値段も高い)ステーキの専門店に出向いたと想像していただきたい。あなたと私が並んで座っているのは、カウンター席。目の前にドーンと控えている分厚い鉄板は、黒光りするほどに磨き上げられ、十分な熱エネルギーを蓄えて、本日のメインディッシュであるサーロインステーキが載せられるのを待っている。

そこへ、シェフが登場。手にした皿の上に載っているのは、厚さ3cmはあろうかという見事なA5ランクのサーロインである。シェフは手慣れた手つきでこれを鉄板に置いた。その瞬間、ジュウゥゥ…という豪快な音とともに辺りを包む香ばしい肉のかおり。続けざまにシェフは、味付けの塩(おそらく簡単には手に入らない、シェフこだわりの塩)をステーキにさっとひと振りし、さらに手早く黒コショウを振りかける。肉をひっくり返してもう一方の面を焼き始めたシェフ。今日のオーダーはミディアムだ。そろそろ焼きあがりが近い。シェフは、ここぞという焼き上がりのタイミングを見計らって、やや大ぶりのナイフとフォークを手にし、ササっと一口サイズに切り分けて、あなたと私の皿に最高の焼き加減の最高の肉を盛りつけた。

勝負はここからである。私はシェフに問う。「ウスターソースはありますか?」。シェフの右眉がピクリと動き、顔つきに怪訝な影がさす。が、それも一瞬のこと。シェフはかたわらの棚からウスターソースの小瓶をとり、「どうぞ」と静かに差し出した。私はこの瓶を受け取るやいなや、皿の上のステーキにドバっと注ぐ。皿の上に広がるウスターソースの海。海面上には肉からこぼれ出るかのように、油の玉が漂い始める。ほどよく油の流出が進んで、ウスターソースと混合し、いくぶんウスターソースの味に丸みの出たあたりが食べごろだ。満を持して私はウスターソース滴るステーキを口に運ぶのであった。

…という、ある意味での暴挙の現場に、はたしてあなたは居合わせる勇気があるだろうか。万一シェフがけんかっ早い人物であったなら、ウスターソースをかけた瞬間、胸ぐらつかまれて店の外に放り出される可能性もあるわけである。ウスターソース主義者は、ウスターソースを味わうことにどこまでも貪欲だ。その実践のためには、常に多少のリスクを覚悟しておかねばならないだろう。

ま、ここまで極端なシチュエーションはそうそうないにしても、家庭内で焼かれたステーキに遭遇する機会はそんなに珍しくないと思う。そこで、家庭内におけるステーキ遭遇時にウスターソース主義者はいかに対峙すべきであるか、といった心得をここでご指南しておきたい。じつは私自身、ずいぶん長い間、自宅で焼くステーキの味付けは塩とコショウでよいのだと思い込んで過ごしてきた。だが、近年気づいたのである。これでは何かが足りない、と。何が足りないのか。その物足りなさの原因を自己分析していった結果、それがウスターソース味であると思い至った。私がウスターソース主義を明確に意識した、その発端は、どうやらこのあたりにあったのだと思う。思い返してみると、幼い頃の私には(親の影響だと思われるが)、肉類にすべからくウスターソースをかけていた時期が確かにあった。まさに「三つ子の魂、百まで」ということであろう。

外食時のウスターソース三昧は、おおむねその場限りのヒンシュクで終結するのであるが、家庭内で誰か(誰だ?)に焼いてもらったステーキを食するときには、ウスターソースの使用に最大限の注意を払わなければならない。ウスターソース主義者である以上、ステーキの最初のひと口からウスターソースを滴らせて、ウスターソース味を堪能したいのは人情。しかしながら、出されたステーキにいきなりウスターソースを注いだ瞬間、「あら、私の味付けに何かご不満でも?」と、争議勃発の火種を抱えることは必至である。ヘタすれば、その場でウスターソースを没収され、その後、家庭内からウスターソースが姿を消すといった最悪の事態に発展する可能性もある。であるから、慌ててただやみくもにダバダバとウスターソースを注ぐのではなく、まずひと口はウスターソースなしで「うーむ、うまい。こんなうまい肉、食ったことない。なんと絶妙な味付けなのであろう!」というアピールを前面に押し出したのち、「ま、ちょっと試しに…」といったごく遠慮がちな態度でウスターソースへ手を伸ばす、きめ細やかな配慮(あるいは、姑息な小芝居)を励行していただきたい。ウスターソース主義の末長い継続には、はやる心を抑える自制心を持つことが何より肝要である。

第4講 生野菜にウスターソース

家庭で生野菜を食する場合、大きく分けて3つくらいの食べ方に集約されそうである。

まずひとつは塩を振りかけて、あるいは付けて食べる方法。近年のグルメブーム以来、やれミネラル豊富な天然塩だの、どこそこの岩塩を含む甘みのある塩だの、こだわりの塩と称されるものが次々に出てきて塩ひとつ選ぶにも結構考えなければならなくなったわけではあるが、これらの「おいしい」と言われる塩で生野菜をいただけば素材の味を最も余すところなく味わうことができるのかもしれない。野菜の「通」と呼ばれる方々には、これがベストな選択であろうか(ちなみに、私は少なくとも生野菜の「通」ではない。それは、この後の論考を読んでいただければ一目瞭然である)。塩でいただく野菜としては、主に充実性の野菜(キューリ、トマト、ニンジンなど)があげられる。この食し方、葉もの野菜にはやや不向きな気がするがどうだろう。

もうひとつは、マヨネーズやドレッシングなどをかけて食す方法。最近ではこれが一般家庭でのもっともポピュラーな生野菜の食し方だと思われる。葉もの(キャベツ、レタスなど)に合う方法であるが、葉ものに限らず、「生野菜なら何でもかんでもこれでいく!」という方もきっと多いであろう。私自身も「あのメーカーの、あのドレッシングはうまいなぁ」と思っているものがいくつかある。

そして最後に忘れてならないのが、ウスターソースである。ウスターソース主義者にとってのウスターソースは、生野菜全般に対するオールラウンドなドレッシングだ。充実性の野菜から葉もの野菜まで、なんでもござれ。これさえあれば、エブリシングOK!。とりわけ、葉ものには適性が高い、と私は思う。キャベツの千切り(シャリシャリに細く刻んだもの推奨)にかけるのもGoodであるが、ザックリと手で裂いたレタスに思いっきりぶっかけていただくと、まさにウスターソース味の極み、至福のひと時を実感できる。

おぼろげにウスターソースの愛好者であることを自覚し始めた中学生の頃、私には一つの夢があった。それは、レタスにウスターソースをかけるのではなく、ウスターソースにレタスを浸けて食べてみたい、というものであった。実行したことはないが、もし実行するとしたら、具体的な実施要領は次のとおりである。

①ウスターソースを大量に(数リットル単位で)用意し、大ぶりの容器(樽のようなもの)へ満たしておく。

②畑へ出向いて、そこに植えられているレタスを1個採ってくる。まさに採れたてのみずみずしいレタスである。まだ畑に朝露が残る、さわやかな早朝であれば申し分ない。

③レタス表面のやや硬い葉を3枚ほど取り去り、若葉色のつややかな葉が露出したら、おもむろに手でレタスの玉を中央から2つに割る。

④鷲づかみにした半玉レタスを、樽に満たしたウスターソースにザブリと浸ける。

⑤ウスターソース滴る半玉レタスに思いっきりかぶりつく。

おそらくそこら中にウスターソースが飛び散るであろう。また、口の周りから服まで、全身ウスターソースでべとべとだ。でもそんなことは気にしない。ウスターソースに浸けてはかぶりつき浸けてはかぶりつきして、レタス1玉を食べきる。ああ、なんという壮大な夢であろうか。これぞウスターソース主義者の本懐といっても過言ではあるまい。

ま、さすがに今、この計画を実行しようという気はないが、数千円程度の出費と家族からの冷たい視線に耐える覚悟さえあれば、やってやれない計画ではない。世に潜伏するウスターソース主義者の同志諸君、ぜひ一度チャレンジして感想を報告してほしい。でも「すごく、いい!」って言われたら、やってみたくなっちゃうなぁ。いやー、困った。

第5講 カレーライスにウスターソース

ウスターソースに限らず、カレーライスにソース類をかける食べ方は、どちらかというと関西圏の文化であるらしい。我が身を振り返ってみると、父親がカレーライスにウスターソースをかけて食べている姿は子供の時から目にしていた。ただ、自分自身でやり始めたのは比較的最近のことである。むしろ、それまでの私は、カレーライスにウスターソースをかけることにためらいがあった。いや、その行為には若干の嫌悪さえ感じていた。カレーはカレー単体でうまいのに、なぜそこにウスターソースをかける必要があるのだと、ずっと思っていた。そんな私がなぜ、カレーライスにウスターソースをかけ始めたのか、もっと言えば、ウスターソースをかけないカレーなどカレーではない、とまで考えるようになったのか。それは、カレーライスに対する正しいウスターソースのあり方に目覚め、そのかけ方、味わい方を見出したからである。第5講では、そのあたりを中心に述べていきたい。

まず、カレーには、ウスターソースをかけてよいカレーと、かけてはならないカレーがあることを知っておく必要がある。かけてよいカレーとは、ごく普通に食料品店で売られている大手メーカーのカレー・ルーを用いて作られたカレーである。できれば、甘口から中辛あたりが推奨される。辛口でもかまわないが、あまり辛すぎたのでは、ウスターソースの味を邪魔することになりかねないので気をつけたい。

一方、ウスターソースをかけてはならないカレーとは、本格インドカレーであるとか、タイカレーであるとか、とりあえず、ルーでお手軽に作ったのではない、手間暇かかった甘さ控えめ系のカレーである。これらは、基本的にウスターソースと味的にけんかしてしまう可能性があり、そのリスクを冒してまでウスターソースにこだわる意味はない。

もうひとつ、ゆめゆめ忘れてならないのは、誰か(誰だ?)が作ってくれたカレーを食べるときの振る舞いについて、である。どうぞ、と差し出されたカレーライスに、いきなりドドドッとウスターソースをかけてはならない。たとえそれが市販のルーを用いて作られた、何のこだわりもないごく普通のカレーライスであったとしても、だ。すでに第3講でも学習したとおり、この振る舞いにはごく繊細な気配りが要求される。一瞬でも油断したが最後、「あら、私のカレーに何かご不満でも?」と、はなはだしくスパイシーでホットな状況が突如出現するであろう。もちろん、そのあとには「ウスターソース没収→ウスターソース永久追放」といったお決まりのコースが準備されている。十分にお気をつけいただきたい。

では、本講の主題である「カレーライスに対する正しいウスターソースのかけ方」について述べる。

第1の基本は「ウスターソースはカレーにかけるもの」という考え方である。「ご飯に直接かかるようなかけ方はするな」と言い換えてもよい。また、そのかけ方として、カレーの一点にかける(ピンポイント投入する)ことなく、カレーライスのカレー部分に対して、その最大径を通る中央縦断1直線投入をお勧めしたい。

ウスターソース投入を無事に終えたからといって、油断は禁物である。ウスターソースのかかったカレーライスを食する直前、すなわちスプーンをカレーライスにザクリと差し入れ、これを口に運ぶまでの過程において、十分に気を配らねばならない重要なポイントがある。

カレーライスにウスターソースをかける方の中には、ウスターソース投入後、ウスターソースとカレーとを十分に混和してから口に運ぶ方がいらっしゃる。この方々の目的は、ウスターソースによって多少なりとも甘口カレーを辛口の方向へ持っていく、つまりカレーの味全体の改変ではないかと思われるが、ここには大きな誤りがある。ウスターソースを混ぜ込んでも、甘口カレーは辛口にはならないので、認識を改めていただきたい。もしも何かを追加投入することで甘口を少しでも辛口に近づけようと意図するなら、それには専用の調味料が存在しているので、そちらのご利用をお勧めする。

よって、基本その2。「カレーライスに対するウスターソースは、アクセントの付加を主たる目的としている」と心得るべし。それはいわば、カレーライスに添えられた福神漬やラッキョウなどと同等の役割を担うものと理解すべきである。福神漬やラッキョウをカレーライスによーく混ぜ込んでから食べる、という人はさほど多くないであろう。ビビンバじゃないんだから。ウスターソースも同様の観点をもって使用されなければならない。

カレーもウスターソースも、ともに液状物である以上、ウスターソース投入と同時に混合が始まる。しかしながら、液体としての密度・組成の差により、一瞬にして完全混合するわけではない。混合する手前のこの瞬間を見逃さず、カレーとご飯とその脇に投入されたウスターソースとをすばやく一さじにすくい取り、口へと運ぼう。広がるカレーの芳醇な香りと深い味。やがて、その隣りから、ふわりと立ち上がるウスターソースのほのかな香り、そして微妙な酸味のアクセント。ああ、ウスターソース主義者に生まれてよかった、そんなことをしみじみ感じる一瞬がここにある。

第6講 ウスターソースに幸あれと

ウスターソースの魔力は偉大である。それは一調味料としての枠を超え、人をして時にイデオロギーの変革さえもたらす力を持つ。なれど、ウスターソース主義者は、必ずしも多数派とは言い難く、若年層にはウスターソース離れの傾向が出始めていることもまた事実であろう。いかにしてウスターソース離れを防ぐか、それは今後のウスターソースそれ自体の存亡に直結した大問題であり、これを解決するにはウスターソース主義者がウスターソース党として集い、世に広くその魅力を啓発する以外にない。

目玉焼き、肉、生野菜、カレーライスは言うに及ばず、天ぷら、チャーハン、各種フライ物から野菜いためまで、ウスターソースの守備範囲は多岐にわたる。誤解のないように申し上げるならば、第5講カレーライス編でも述べたとおり、ウスターソース主義者は、料理にウスターソースをかけて料理自体の味付けを変革しよう、などとは意図していない。それは、あくまでもアクセントの付加であり、ベースとなった味付けを自分なりにもう1段階高める、プラスαの所作なのである。家庭内においては、このあたりをご理解のうえ、ウスターソース主義者の動向を温かい目で見守ってほしい。もちろん、ウスターソース主義者サイドも、あらぬ誤解を招かぬような配慮を持って行動しなければならない。

世に潜伏するウスターソース主義者の同志よ。ウスターソース主義を掲げて立ち上がろう。そして叫ぼうではないか、ウスターソースに幸あれ、と。

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